旧諸江屋から螢屋へ |
改修前 | 改修後 | |
敷地面積 | 193.38m2 | 193.38m2 |
1階床面積 | 168.95m2 | 161.49m2 |
2階床面積 | 156.20m2 | 126.45m2 |
建築面積 | 168.15m2 | 161.87m2 |
延べ床面積 | 325.15m2 | 287.94m2 |
2001年9月5日
「内藤だけど覚えてる? 金沢のある仕事に長村君を推薦しておいたよ」 尊敬する建築家からの突然の電話。なぜ、内藤さんから電話をいただけるのだろう…との疑問が頭を駆けめぐったまま受話器を置いて気が付いた。いったい何の仕事なのか、聞き忘れてしまったことを。まあ、いいか、そのうち何らかのリアクションがあるだろう。
2001年9月30日
「実はね、ひがしの茶屋街に『旧諸江屋』という江戸時代の建物があってね。現在は空き家になっているのだけれど、それを懐石料理のお店に改装したいと思っているんだ」と浅田氏。ああ、内藤氏が推薦してくださった仕事ってこのことだったんだと、ようやく点が線になる。浅田氏から出島二郎氏へ、出島氏から内藤氏へ、地元の若い設計者に依頼したいという相談がなされ、たまたま内藤氏が私を推薦してくださったということだ。「文化を途切れさせないで伝えていきたいんだ」「個を大切にした異空間をつくりたい」「出島氏と相談して『螢屋』というお店の名前はすでに決めてある。この建物に染み込んだ当時の女性たちの儚さを蛍に喩えようと思ってね」と浅田氏から、改修に向けてのいくつかの想いを聞かせていただいた。 話をうかがって、嬉しいよりも怖いというのが正直な感想だった。金沢を訪れる観光客の大多数が訪れるひがしの茶屋街。「旧諸江屋」の改修は、半公共事業的な影響力を持つと言っても過言ではない。しかも「ひがし」の入口に立地する、いわばファサードの役割も担う。また、創業百三十四年の浅田屋の知名度と老舗が負う責任を考えると、失敗は許されない。これまでモダンの設計ばかりで「和」はもとより商業建築を手掛けた経験のない私が、この改修を成功させることができるのか。しかし、百八十年前から存在し、今は沈黙している建物に新しい命を吹き込み再生させることの魅力、未知なるものに挑戦してみたいという意欲に心が揺れる。そして浅田氏ご自身、内藤氏の推薦があったとは言え、モダンの建築ばかりで「和」のテイストがまったく感じられない会場の写真をご覧になり、果たして私にこの改修設計を任せていいのだろうかとの不安が払拭できないでおられる様子。
2001年10月1〜5日
「旧諸江屋」が重要伝統的建造物群保存地区内の建物として選定されている以上、この建物の外観を大幅に変更できない。であれば、現代に生まれ変わる商業建築として、外観からの予想を超える新しい内部空間を創り出したい。これまでの「和」の建築はと言えば、ほとんどが「階」で仕切られており、それぞれの階から他方階はうかがい知れず、通路としての機能しか持たない階段だけが唯一、上下階を繋ぐ空間だった。では、その「階」という概念を曖昧にして、それぞれの層から別の層を見下ろしたり、見上げたりするはどうか。垂直に建つ柱や水平にかかる梁など、線状の部材のみ残して壁は取り去る。その中に曖昧な、和では通常使わない三次曲面の壁で囲われた部屋をいくつか設けてみてはどうだろう。床との境なく壁となるやわらかな曲面で構成された繭状の容れ物は、視線を遮るか遮らないかの高さで上に向かって開き、ぼんやりと薄暗い空間にぽっかりと浮かび上がって見える。壁は土や竹、または和紙などで表面の仕上を施す。柱は曲面の壁を貫通しながら上へと伸び、梁に段差を付けることで垂直(or立面)方向の変化を持たせる。そして、上層の部屋の開口部から漏れる光が下層の部屋に落ちる新しい空間―という在り方を想像する。 浅田氏にはコンペを提案してみたものの、こうしたいああしたいという気持ちの高まりを抑えることができず、自分の想いを持て余しながら落ち着かない毎日を過ごす。とうとう、とにかく一度、話を聞いていただきたいと書状を認める。
2001年10月12日
2001年10月23日
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2002年1月までの3ヶ月間
設計に必要な寸法の測量。腐って取り替えを必要とする部材を調査するために、近年、施工された内装壁の撤去工事と、新しい基礎を造るための建物のジャッキアップ工事が本工事に先駆けて発注された。 調査を進めるうちに、シロアリの被害が床下のみならず柱を上って2階の床梁にまで達していることが判明、床下の束の大部分に蟻道が通り、被害の大きさにただ驚くばかり。「旧諸江屋」が「ひがし」の中でも低い地盤に建っており、床高の低さと相まって湿気がたまりやすいことが原因として挙げられる。しかも、近年の改修で井戸と室(ムロ)に通気管を設けないまま床が張られ、床下の湿度がかなり高い状態に保たれてしまったことが被害をさらに拡大させていた。
建設当初、角柱は能登ヒバと松材が使用されていた。ヒバ材の柱脚部では虫食いの跡がいくつか見られるものの、アリはヒバが苦手らしく被害はごくわずか。しかし、松材は100パーセントに近く虫害を受けている。この柱は敷居下端で根継ぎされており、束石との関係や仕口を見てもかなり雑な仕事であることがうかがえる。束を上がって蟻道が見える。シロアリは敷居まで食い散らかしている。
土中から束石を伝って束を蟻道が上がっている様子。この束・大引は昭和63年(1985)の改装で床を張った時のもの。束石としてコンクリートの破片を置いただけで、その下には砕石も施工されていないため、束との間に隙間が見える。
建設当初、角柱は能登ヒバと松材が使用されていた。ヒバ材の柱脚部では虫食いの跡がいくつか見られるものの、アリはヒバが苦手らしく被害はごくわずか。しかし、松材は100パーセントに近く虫害を受けている。この柱は敷居下端で根継ぎされており、束石との関係や仕口を見てもかなり雑な仕事であることがうかがえる。束を上がって蟻道が見える。シロアリは敷居まで食い散らかしている。
梁と桁が繋がっていない。厳密には桁天端で「かすがい」で繋がり、桁は土壁の天端に埋め込まれた角材の上に乗っているだけである。梁の腹と桁の先端に仕口がないことから、ある時期の改修で桁が取り付けられたと考えられる。本来なら、軸組よりも壁の施工が後になるので、壁に埋まっている角材の上に桁を載せることはできない。よって建設当初からではなく、ある時期に行われた改修工事での仕事と考えられる。こういう施工はプロとして恥ずかしいはずなのだが。
積み木のように重ねられた梁と桁。梁の上に端材を挟み、その上に桁を掛けている。載せてあるだけなので、地震などの水平力には脆い。
梁に大きな穴が開けられている。ある時期、裏階段はL字型だったらしく、その最上段部分が梁から手前側に曲がっていた。かつて下屋部分の上に2階があった痕跡から考えると、建設当初か、かなり初期からこのような状態だったと想像できる。
土蔵に接して建っていた柱(現在この柱はない)。 土蔵の積み石に接する柱脚部が腐っている。虫害をうけていない柱も、触るとボロボロ崩れる状態であった。
図面の右が北
現場測量と並行して、「ひがし」の成り立ちと「旧諸江屋」の関係を調べる作業も行っていた。江戸時代後期に金沢の中心部に、今で言う風俗店が増えていった。行政は何度も取り締まるがいたちごっこ。江戸時代も現代も、同じことが繰り返されていたらしい。 寛永5年(1628) 「金沢町中御定之条々」遊女出合宿に関する禁令 。 寛永8年(1631)・寛永14年(1637)・寛永16年(1639) 御法度は出合屋を禁じる。 元禄3年(1690) 武士8人が町人と共に19人の遊女を屋敷・空屋敷へ引入れ、出合宿を行っていたことが露見。武士は五箇山へ流刑、町人は斬首あるいは耳・鼻をそがれて追放、遊女は里子刑に処され奥能登送りとなる。 この時代、風俗店の客は町民で、帯刀を許された人々は出入りを禁止されていた。しかし、街中にあるお店の誘惑には抗えない人も多かった。取り締まれども、どうにも効果が上がらない。そこで行政は、浅野川と犀川に挟まれた街中心部ではなく、川の外側で営業させることを考えた。 文政元年(1818) 犀川及び浅野川の外に遊里を公許することを稟議 文政3年(1820) 3月25日開設・8月24日開業許可 (現在より182年前) その後、公認の廓として東と西の廓が誕生した。廓は板塀で囲われ、入口にはゲートとしての木戸が設けられた。その入口正面にこの「旧諸江屋」が建っていた。文化8年の町絵図と「浅野川茶屋町創立之図」(開設は文政3年)を比べると街区割りがかなり異なっていることから、ひがしの廓はそれまでの街区をまっさらにして行われた再開発であったことが明らかである。
町絵図
浅野川茶屋町創立之図
上絵図の左端中央部を部分拡大して180゚回転 右端中央の木戸の正面角地が「吉文字や いそ」、その隣が「越中や 又吉」と読める。その二軒が現在の旧諸江屋である。 |
再開発によって一斉に100軒近い店が建てられた「ひがし」では、大工や材料の不足は深刻だったと思われる。お金のある店は良い大工を雇い、立派な材料を使えただろう。しかし、資金力に乏しい店は見習い程度の大工で、材料も再生材を使用せざるを得なかったのではないか。建物の造りが雑なのはこういう理由によるものかもしれない。
こういう状態の建物を見ていくと、現代の「欠陥住宅」がこれから180年の時を経過したならば、はたしてそれはどんな価値があるのか・・・という命題に直面する。江戸時代から体積した塵と埃にまみれながら一日の測量を終え、何を残すことに意味があるのかと自問自答する毎日。壁は撤去するものの軸組は残すつもりでいたが、その肝心の柱や梁の材料、保存状態、施工のあまりのひどさに途方に暮れた。 文政11・12年(1828・29) 諸士の風俗に関する令や、囲内における取り締まりの覚書 帯刀の者の出入りは廻方役人以外は禁じられていたが、なかなか守られなかったらしい。 天保2年(1831) 8月18日茶屋町廃止、木戸を取り払う 茶屋町は廃止されたが町の風俗は改まらず、風俗に関する心得や出合宿、かこい女を禁止する定書がたびたび出される。 弘化3年(1846) 茶屋町は「愛宕」に町名変更される また、行政は「もぐり」の出合宿の営業を阻止するねらいで、これまでの「嵩高成二階作り」を低く造り直すよう達し書を出す。これは、通常より高めの2階天井高、多めの間数といった廓特有のつくりを普通の家に改めるというものであった。 慶応3年(1867) 茶屋町が再び公認される 再開の申し渡しが8月晦日、9月9日より茶屋営業開始となっていることから、
家屋改造のお触にはききめがなかったことがうかがえる。 これ以降、茶屋町は「東新地」と呼ばれる。
この年に出された『東新地細見のれん鏡』には、「大暖簾61軒・中暖簾42軒・小暖簾9軒・芸妓119人・娼婦164人・遠所芸妓45人・雛妓など・・・」と書かれている。
「東新地細見のれん鏡」 ( 菊くらべ ) 1867年(慶応3年)
これによると東新地では、大暖簾61軒・中暖簾42軒・小暖簾9軒があり、芸妓119人・娼婦164人遠所芸妓45人・雛妓がいたと記されている 。左側が諸江屋ののれんだが、他店では、家紋をあしらったもの等があるなかで比較的おとなしいデザインである。 明治5年(1872)10月 人身売買を禁止。11月23日正午より、抱女を解放し本籍地へ戻した 明治6年(1873) 貸座敷が公認される 東新地の貸座敷・料理の看板はこの時以降、「芸娼妓、貸座敷営業者に対する仮規」により規制される。 明治9年(1876)7月 「芸娼妓、貸座敷営業者に対する仮規」が「貸座敷仮規則」に代わる 明治12年(1879) 「貸座敷規則」となる この「旧諸江屋」は、もともとは「吉文字や いそ」(角側)と「越中や
又吉」(角から二軒目)のそれぞれ独立した2棟の建物が、後年の改造により一体化されたものであることが面白い。ある時期、「越中や」が壊され、その跡に土蔵が建てられたことは、それぞれの土壁や屋根下地の煤け具合を比較すればわかる。その後、土蔵奥の座敷と広見側の6帖間が増築された。土蔵と奥座敷が同時期に建てられたのではないこと、また奥座敷が建てられた場所が、以前は庭であったことは、奥座敷と隣家が接する壁に穴を開けると、隣家側に下見板の外壁が施されていたことからわかる。また、この奥座敷の柱に角柱ではなく面皮柱が使われていることから、一般的に面皮柱が使用されるようになった明治時代に増築されたものとの想像がつく。明治21年(1888)の『石川県下商工便覧』には「上等貸座敷
金澤東新地 御料理 諸江屋櫛田豊」として、現状と殆どかわらない「旧諸江屋」正面の絵図が記されている。
「遊郭金沢東新地」(『石川県下商工便覧』所収)
東新地から9軒が選ばれ、「上等貸座敷・御料理」として紹介されている。建物に対して人物が実際の半分ぐらいに描かれたプロポーションが不思議である。
「吉文字や」側の当初の階段位置(階段受けの跡が左右両側に見受けられる)
「二階以上、客室十八坪以上あるものは楷子二個以上を設くへし楷子の巾は三尺以上たるへし」(「貸座敷仮規則」明治23年(1890)改正規則第9条) 明治期に設けられたと思われる旧階段跡と現在の階段。旧階段は280/190(蹴上/踏面)の急勾配。その後、同じ位置で緩勾配220/227に改造された。旧階段について言えば、下塗りのみの左官壁と階段受けの梁位置から、簡単に改造できる位置に取り付けたものの、あまりの急勾配に使用しないまま工事中にクレームが出て、現在の階段を取り付けるはめになったと想像される。
二番丁の並木(『写真で見る石川の百年』所収)
明治38年(1905)頃の写真によると、二番丁の通り中央に桜と柳が交互一列に植わっていた。現在は、数年前に金沢市が修景として植えた一本の柳の木が「旧諸江屋」前に立っている
明治41年(1908)、現在の建築基準法の前身である「屋上覆葺き規則」が交付され、屋根を燃えない材料にすることが決められた。「ひがし」では、急勾配にして瓦屋根にするものと、元の勾配のまま金属屋根にするものの二種類の葺き替え方法が見受けられる。「旧諸江屋」では、関東大震災(1923)後の大正末期に、従来の石置きの板屋根(勾配3/10程度。この屋根下地は今も残っている)が瓦に葺き替えられた(勾配4.5/10)。このとき、昔の野地板を取り去り、その上に登り梁を乗せて束立てしているが、これは旧小屋組の上に新小屋組を載せただけで、細く弱い軸組に重い瓦の荷重がかかる危険な状態であった。梁や柱の強度が期待できない状況では、いつ崩壊してもおかしくなかったと言えるだろう。 「吉文字や」側の小屋組は当初の姿を残している。梁は丸太を半割にした物で、二間のスパンに対して90×200mm程度の断面しかなかったことは、その当時、材料が高価だったことを忍ばせている。2階天井裏には一面に筵が敷かれていた。定かではないが、一種の断熱材の代わりだろうか。
「東新地絵図」
廓の入口の木戸越し正面に「旧諸江屋」の西側立面が見え、雨戸を開け放した様子が見て取れる。2階の西角側(正面から見て左手側)は本改修前は壁になっていた。しかし、以前は絵図の通り正面と同じ雨戸が廻っていたことが、天井や縁に残された手摺の跡からわかった。西側の戸袋もそれを裏付けるように、その枚数分の雨戸を入れることができる奥行きになっていた。このため、この雨戸と手摺を今回の改修で再現することに異論を唱える関係者はいなかった。 正面2階の高さ740mmの竪繁(たてしげ=縦格子のこと)の手摺が、ラワン材で造作されていることから、昭和40年代以降の改修によるものと推測された。柱際と手摺土台に残るホゾ跡から、かつては高さが550mmと低かったこと、デザインも変更されていることがわかり、今回、元のシンプルな姿を再現した。 また、昭和48年(1973)に行われた昭和女子大学教授・平井聖氏の「ひがし」調査によると、玄関戸は縦格子引違いであった。その後、両開き戸に替わり、平成10年(1998)頃に同じデザインでもう一度取り替えられている。 いわゆる「欠陥住宅」で、また、お茶屋として「美しくない平面」を持つこの「旧諸江屋」にどのような改修を施すことが解なのか、長い間、その方針に悩んでいた。軸組以外のものは取っ払い繭状の部屋を宙に浮かせるという当初の案は、「旧諸江屋」の「がら」にまったく新しいものを挿入すること。しかし、現場の測量と調査を進めていく過程で、私の気持ちは揺らぎ始める。現況から百八十有余年を辿ってゆく作業は、私に多くのことを気付かせてくれたのだ。柱や梁に残された痕跡は単なる傷ではなく、歴史を知る上での重要な参考書であること。壊してしまえば二度と再生できない痕跡を再構築することが、設計者に求められているのではないか。「ひがし」だから意義があることが大切で、別の場所でもやれることはここでは諦める潔さを持つこと。そして、別の方向へ歩みを進めようとしている自分がいた。 その後、この方針を後押しする痕跡に出会う。以前から「ひがし」について綿密な調査を続けてこられた平井教授が現場を来訪され、建物の変遷を整理して考える手法を教授してくださった。先生のご指示で2階の左官仕上の土壁を少し破ってみた。薄紅(うすべに)、真朱(しんしゅ)、黄丹(おうたん)、鴇(とき)、照柿(てりがき)、利休茶(りきゅうちゃ)、花浅葱(はなあさぎ)・・・・・・。何層にも塗り重ねられた土壁の仕上が艶やかさと華やぎをもって、まるで十二単のような姿を現したのだ。十数年ごとに改装が行われたのだろうか。数えてみると断面は十四層あった。まさしく時間の年輪。ぜひともこの壁だけは残したいと身体が震えた一瞬だった。結局、この調査を機会に迷いなく古い壁を残すことを決心する。浅田氏の了解を得て、設計方針を変更。茶屋としての雅致は残し、今という時代を盛り込んで、「螢屋」へと変貌を遂げた21世紀の「旧諸江屋」を後世に受け継いでもらう。これが私の結論だった。
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壁の仕上は、塗り重ねられてきた従来の色と工法を引き継ぐこととし、本聚楽(ほんじゅらく)の「(※)のりごね」仕上としている。
1階コンクリート耐震壁 赤大津仕上(あかおおつ)
1階その他の壁 切り返し仕上(仕上塗りを塗る前の状態)
2階「綾絲(あやいと)」 朱色(真朱)本聚楽
2階「硝子の間」 青色(花浅葱)本聚楽
2階その他の壁 橙色(照柿)本聚楽
※のりごね(糊ごね)
どの壁も、元々この建物に塗られていた色から選ばれている。これらは顔料で人工的に染めているのではなく、それぞれの土が持つ自然の色だ。2階の縁側は、かつて「硝子の間」と同じ水色だった。塗り重ねられた層の数は部屋や場所ごとに異なり、相対的な壁の新旧が想像でき面白い。普通、土壁の下地は竹を細かく割った「竹木舞(たけこまい)」で組まれることが多いが、ここでは葦で木舞が組まれていた。
普通、土壁の下地は竹を細かく割った「竹木舞(たけこまい)」で組まれることが多いが、ここでは葦で木舞が組まれていた。
階段上の壁は中でも最も古く、周りの柱・梁はシロアリがついてぼろぼろだったので取り替えざるを得なかった。改修にあたって壁を両側から合板でサンドイッチにしてボルトで留め、上から吊り下げつつ骨組を替える「おおばらし」という工法を使っている。柱・梁を取り替えてからもう一度壁を固定するこの工法は、「桂離宮」などの改修でも行われるやり方である。
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「螢屋」の玄関は「越中や」の入口であった。玄関正面奥にある庭の井戸は「越中や」の流しであった。「吉文字や」の玄関はと言うと、現在、木虫籠がとりついている広見側の南西角部であり、カウンター席奥の通用口にある井戸が「吉文字や」の流しであった。「吉文字や」の玄関大戸が付いていた明らかな痕跡が2本の柱に残されており、昔の平面のありようを解きほぐす大きな手がかりとなった。「螢屋」では酒の肴としてこの痕跡を楽しむことができる。
民宿 「陽月」の大戸とりつき
江戸時代の玄関部分
江戸時代の玄関部分
江戸時代の玄関部分
1階南側縁側下
土蔵1階床下
根継ぎ
根継ぎ
根継ぎ
根継ぎ
建物は2階の床レベルで100mm以上のレベル差を生じるほど西へ傾き、柱脚も腐るか虫が付くかの状態であった。そのため1階床レベルで全ての柱を切り、建物全体を700mmジャッキアップした。その後、新しい基礎を造り、柱を根継ぎして新しい土台に載せなおす作業を行った。1階の柱は従前に倣い漆を塗った。目立たないが、本工事で施工された柱の根継ぎ跡が床付近に見て取れる部分もある。 本改修前、2階床は土蔵にぶつけて張られていた。しかし、土蔵は後から独立して建てられたことを考えると、本体とは縁を切るのが正解だろう。そうなると玄関を入ったところで吹抜が登場することになる。せっかく吹抜があるならば、江戸時代からの石置き板屋根下地を見せる空間構成にしたい。そこで、東側2階6帖(現「硝子の間」)へのアプローチはガラスのブリッジとした。このブリッジが再生されたしつらいに溶け込んでいるかどうかについては異論もあると思う。私もいまだに結論を出せないでいる。しかし、再現することがこの改修の全てではないとの想いから、あえて挑戦した。浅田氏の言葉を借りると「新しいものを吸収しつつ基本線は守って成長していく」ということだろう。
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外壁について
外壁はヒバの簓子(ささらこ)下見板に無色透明の難燃塗装を下塗りし、その上に柿渋に溶いた弁柄を塗っている。建物の部材を構成する寸法はかなり繊細で、限界まで細く薄く造られ、それが金沢のお茶屋の特徴となっている。今回、外壁の下見板には、その板の重なり部分の厚みを薄く見せるために一工夫している。重ね部分で板厚を見せると板厚そのままが表れるため、下端を3mm切り欠いている。薄い板を使ったように見せて実際には実を採る見せ方の一つである。下見板の働き幅や簓子のピッチは茶屋街の他の建物を測量して、良い感じに見える寸法で決めている。 簓子下見板張り
茶屋街の他の建物では、ファサード(建物の前面)のみが見えるが、「旧諸江屋」は角地で大きな妻面が見えるため、弁柄の色決めは金沢市の文化財保護課の方々と相談して慎重に決定された。「ひがし」では近年の改修時に弁柄が塗られることが少なく、高級そうな印象が好まれてか、青森ヒバを使った白木の建物が増えている。 白木の場合は柾目が映えるが、今回のように弁柄を塗った場合は板目が似合うはず・・・など、ひとつひとつ打合せを重ねていった。 湿気の付きやすいこの建物では、特に柱脚部を腐らせないためには空気をよどませないことが求められる。通用口方向から床下に入った空気は蓄熱されたコンクリートで暖められ、足落としの框下から漏れ出るようになっている。
1階カウンター席周りは、南・西面が木虫籠となっていて耐震壁を入れる場所がない。そこで厨房背面にコンクリートの壁を設けている。1階の地震による水平力は全てそのコンクリート壁に負担させることで、開口部を残した平面を作ることができた。木造部分と違和感なく溶け込むようにコンクリート壁には紅漆喰が塗られている。
着工前の茶屋街
着工前 正面 南側 外観
一番古い旧諸江屋の写真
正面 南側 外観夜景
正面外観 雨戸閉
外壁は難燃塗装+弁柄+柿渋をいう仕様である。弁柄の色は、行政・識者の意見を聞きながら色・塗り重ね数など数多くのサンプルを作って決定された
着工前 正面外観
南西側外観
着工前 南西側 外観
南西側 外観
着工前 西側外観 北西方向より撮影 建物の傾きを修整しないまま外壁が改修されていたので垂直線がなかった。
二階の床レベルが右(道路側)に飛び出ている様子が出窓の様子からわかる。
着工前 西側外観 南西方向より
着工前 西側外観
正面 南側 外観見上げ 金沢のお茶屋の二階の縁は外部と内部が雨戸一枚で仕切られる。だいたい改修されると雨戸の内側にアルミサッシュが設けられてしまうことが多い。景観を守るため雨戸の内側がサッシュという不思議な組み合わせになるわけだ。茶屋本来の姿で今の時代に沿うように、今回はこの雨戸の断熱性を高め止水性も併せ持つ外壁として機能する性能を持たせた。でも、当然重くなったのでちょっと開け閉めがたいへん。
正面 南側 外観
正面 南側 外観 玄関部分
正面 南側 外観 玄関部分 夜景 白木に合う照明器具は多い。和が感じられるちょっとモダンなものを探してはみたけれど、漆塗りに映える器具となるとなかなか思いに添うものがない。和紙や竹、白木といった白っぽい材料では違和感が拭えないのだ。そこで、ガラス作家の瀬沼健太郎氏に制作を依頼した。通路を照らす「ホタルブクロ」型の器具は、芸妓さんの足さばきにハラリとひらめく着物の裾を連想させはしないか。ザラザラからツルッとした表情に変化する表面仕上げは、お茶屋建築の芸の細かさに通じる。
着工前 南側玄関周り |
内部各部屋の説明
1階「カウンター」
1階「お蔵」 床板は解体して、カウンター席に続く廊下に使用。解体後は石貼りにし、2階床は撤去して吹抜とした。入口の障子は新しく貼り替えているが、障子紙のデザインは以前のまま。そのモダンな感覚には恐れ入る。
1階「白糸」 以前、仏壇があったところを置き床に改造し、足落とし付きの客席にした。本聚楽の壁は水分を多めにして塗り、扇風機で急速に乾燥させることで細かいひび割れを強制的に起こしている。この照柿色は多少のっぺりとした印象を与えやすいので、陰影のあるテクスチャを求めてのことである。窓越しに、一年中紅色の葉をたたえたノムラモミジが眼を楽しませてくれる。
2階「綾絲」 何世代か前に塗られていた「真朱」の塗り壁を再現している。部屋名は泉鏡花の小説から付けられた。茶屋では通りに面した座敷より奥庭に面した方が格が高い部屋とされる。控えの間が付いたこの部屋では、芸妓さんを呼んで茶屋遊びに興じることができる。
芸妓さんをよぶに相応しい部屋
改修前の状態
障子を開けて中庭を望む 2階「漆の間」 元は「柳の間」とあわせて一室であったが、2階の耐震性能を上げるために壁で仕切り2つの部屋とした。南・西二面の障子を開け放すと気持ちのいい6帖である。天井全体は漆塗りであるが、特に中央部は、杉の板目を薄く剥いだものをガラスで裏打ちし漆を塗っている。夕暮れ時、その漆を透かしてぼんやりと板目が浮かび上がる。また、天井と同様の手法で杉の柾目が施された製作ものの行灯がカウンター席へ向かう廊下に控えている。まるで絹糸のように繊細な柾目を映しだすやわらかな光は、蝋燭の灯りしかなかった時代への郷愁を誘う。
右側の手摺がついている部分は、昭和の改修で壁になっていたのを江戸時代の形に戻した。
改修前の状態 この部屋(床の間+10帖)を二分割して6帖間を二つにした
天井板は漆塗りだが、一部分は薄板を硝子に貼り一般部と同じように漆を塗っている。
2階「柳の間」 障子と緑の雨戸を開け放つと、ちょうど正面に広見の柳がそよぐ。両脇を壁でトリミングされ、あたかも自然が床の間になったかのようだ。天井からは一枚物の和紙を透かして暖かな光が漏れ、部屋全体を幻想的に照らしている。補強で透き込まれたアルミパイプが、竿縁のような顔をして和紙を引き締めている。
障子で風景がトリミングされて柳が正面に見える
天井は一枚物の和紙 ( SHIMUS )
改修前の状態
2階「硝子の間」 そこへアプローチするためだけにガラスブリッジが用意された「硝子の間」。その名に相応しく京都の青竹土で塗られた水色の壁が爽やかな印象を与える。テーブルはブロンズ色のガラスにして、障子越の光を反射させた。まるで月明かりに照らされた宴の雰囲気を演出している。ブリッジもテーブルも構造の横材が出ないようにして、それ自身を構造材として使っているため、エッジがなくシンプルな見栄えに仕上がっている。
壁の青色は、何十年か前にこの部屋の仕上に使われていた京都の青竹土を使っている。
改修前の状態
2階 「硝子の間」からブリッジを見る
改修前の状態 二階は床が張られて土蔵は見えない状態になっていた
2階 「硝子の間」方向を見る。左は土蔵 トイレ 女子用は天井=屋根とし、透明ガラスを通して四季の移ろいを楽しめる空間である。雨の雫の流れる様を見上げ、雪に包まれた感覚を味わう。そして天候が良ければ燦々と射す陽の下で用を足すのも普段経験できないことだろう。男子用は、畳一枚分の小さな庭に向かってガラス面に小用を足す。水に濡れた金明竹(キンメイチク)を眺めながらというのも一興だ。ガラス面が小便器だと気付かなくても、それが話の種になることが、「ひがし」の洒落っけにつながるように思う。
女子トイレ 屋根のガラス面に雨が流れている状態の写真。冬は雪が積もっているのが下から見える。
男子トイレ 正面のガラスが小便器。この写真はガラス面の下半分に水が流れている状態。
錆びた外壁はコルテン鋼。
手水
実際に使用されているのを見たことはないが、飲食店などではトイレの外に手洗いを設けろ・・・と保健所の指導がある。レストランなどでも申し訳程度の手洗い器が隅に付いているのを見たことがあるでしょ? そうあれ、あれです。 目立たないように小さいのを隅っこに取り付けるのも手かもしれないが、そういう消極的なデザインをするよりも、それを逆手にとっていい手洗いに持っていこうと考えた。垂れ壁の裏側には照明器具と水栓が取り付けてあり、光と共にポチョンポチョンと水滴が落ちてくる。この雫によって一応手は洗える。垂れる雫が手水鉢に波紋を作ることで空間に動きをつくりだす。 玄関見返り
玄関見返り
左から階段・ブリッジのある吹き抜けた玄関ホール・土蔵
玄関ホール吹抜を貫通するガラスブリッジを下から見上げる。照明は裸電球。
2階 「硝子の間」方向を見る
2階 階段を上がって見返り
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「旧諸江屋」から「螢屋」へ
築180年あまりの建物と聞いてどんな建物を想像されるだろう。一般的にお城、寺院、神社はもっと年月を経ているかもしれない。最初に皆さんが思い浮かべたのは、太い柱、丸太の梁、高い天井を持つ「田舎屋」「古民家」のイメージではないだろうか。しかし、古い建物が必ずしもそうとは限らない。京都や金沢で見られる町家や茶屋の柱・梁は細く、天井も低い。加えて、狭い間口が奥へと延びるプランがその特徴だ。最初に想像された建物とはかなり異なった形状ではないだろうか。 今回、私が改修の設計を手掛けたのは、江戸時代に建てられた茶屋だった。田舎屋には田舎屋の造り方があるのと同様に、お茶屋にはお茶屋の造り方や成り立ちがある。お茶屋は基本的に遊ぶためのスペースなので座敷には押入もなく、床の間にも掛け軸などを入れておける最低限の置き床があるくらい。そのかわりに、芸妓さんが踊りを舞うためのスペースとして「控えの間」が必ず付く。また、お茶屋は町家よりも繊細に造られており、窓には木虫籠(「きむすこ」あるいは「きもすこ」)と呼ばれる格子が付いている。「木で作られた虫籠」と表現されるに相応しい繊細で細い格子。町家に付いている格子とは比べものにならない細い寸法でできている。 そういう知識が増えると、この建物に自分の趣味で100mmくらいの分厚い立派なテーブルを持ってきてはとんでもない勘違いになってしまうことがわかる。恐らく、どこまで薄く繊細に見せるか、建物の性格に合った細やかな配慮が必要だろう。設計者は裏付けのない一般的なイメージや個人の趣味で寸法を決定するのではなく、建物の種類・用途で微妙な寸法を使い分けなければならない。 しかし、現況を測量し始めた私は、いたるところで多用された再生材、現状を維持できているのが不思議なくらいにか細い軸組、そしてあまりにも雑な施工に、「一体これの何を残す意味があると言うのか」という疑問に悩まされる。ところが、昭和女子大学の平井教授が手弁当で建物の調査に来て見つけられた、何層にも塗り重ねられた壁の断面を美しいと感じたとき、古い柱や梁よりも、この壁だけは残したいと気持ちが固まった。 180年分の埃と塵にまみれながら3ヶ月にわたって行った測量が、私にあらゆる痕跡から多くのことを学ばせてくれた。その時代や性格を色濃く反映した建物を再生するとき、用途が変わる改修ならばもとの建物の成り立ちは関係ないと割り切ることが私にはできなかった。木の年輪が私たちに時間の経過を静かに語ってくれるように、その建物が、脈々と存在してきた時間の長さを圧倒的な迫力でもって私に示してくれたからだ。どう造られ、どう変化してきたかをその建物から学ぶことは大切なことだと感じている。 私がこれまで設計してきた建築物は、一体どれだけこの世に存在するのかとふと考えることがある。日本の住宅は平均して25年弱で壊されてしまう現状を睨むと、いいところ50年ほどか。木造・鉄筋コンクリート造・鉄骨造のいかんに関わらず、本来の寿命ではなく経済性や生活スタイルの変化が優先されて壊されていく。「螢屋」として生まれ変わった建物は、この「ひがし」に在る限り自らの都合で壊されることは恐らくないだろう。金沢の文化を後世に伝えていきたいと願う浅田氏によって与えられたこのプロジェクトは、これからも時代と共に変化しつつ次世代に受け継がれていくだろう。
「螢屋」の完成によって壁の年輪はもう一層増え 15層目が塗り重ねられた
改修前・後の平面図
地図
※参考文献
※完成写真撮影
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設計・監理 | -architect office- Strayt Sheep /長村寛行 |
構造設計 | MA構造設計/松浦弥 |
設備・電気設計 | ジェーエス設備事務所/坂野真由美・金子克茂 |
施工 | 真柄建設株式会社 石島宏和 |
電気工事 | 米沢電気工事株式会社 渡辺亮介 |
給排水衛生・空調・換気工事 | 鈴木管工業株式会社 堀隆作 |
厨房設備工事 | 株式会社マコト 大屋誠一 |
仮設工事 | 山口組・日綜産業株式会社 |
コンクリート工事 | 高田産業株式会社・森本生コン株式会社・城西運輸機工株式会社 |
型枠工事 | 有限会社マルイチ・有限会社高村土木 |
鉄筋工事 | 株式会社コデラ・有限会社高村土木・株式会社辻さく |
石工事 | 株式会社和田大理石北陸・橋爪石材工業株式会社・立野石材株式会社 |
木工事 | 株式会社谷口建設・松浦建設株式会社・タカギ建装・株式会社菊地家具製作所・堀井建築・株式会社東洋ホーミング・杉浦木工所・日本住宅パネル工業協同組合 |
瓦屋根工事 | 株式会社ナカタケ |
銅板屋根 | かな和工業株式会社 |
左官工事 | 株式会社イスルギ |
木製建具工事 | 有限会社蔵木工所 |
金属工事 | 株式会社マルサ佐藤製作所金沢営業所 |
ガラス工事 | 高橋硝子建材株式会社 |
塗装工事 | 株式会社若宮塗装工業所 |
内装工事 | 株式会社アフティー |
照明パネル・家具工事 | 株式会社山岸製作所 |
家具工事 | 有限会社ウオエ店装 |
漆・弁柄工事 | 沢田欣也・村本真吾・藤野征一郎・名雪園代・伊能一三・村田佳彦 |
弁柄 | 戸田工業株式会社 |
和紙天井 | SHIMUS |
硝子照明器具製作 | 瀬沼健太郎 |
電気設備 | 松尾電気 |
弱電工事 | 日本シーケンス |
空調設備工事 | 有限会社柚空調 |
保温工事 | 有限会社安江保温 |
空調設備工事 | 下村冷熱株式会社 |
床暖房 | キーサン |
設備塗装工事 | 黒瀬塗装 |
造園工事 | 一正造園 |
解体工事 | 有限会社ケィ・サービス |
ケヤキ板手配 | 宮森正雄 |
錆鉄板張り工事 | 株式会社南商店 |
ダムウェーター工事 | 北菱電興株式会社 |
防蟻工事 | 丸三製薬株式会社 |
難燃防火処理工事 | スタンドアドサービス株式会社 |
屋根融雪 | 辰尾融雪 |
家具 | (株)坂井工芸 |
光ファイバー | ヤマギワ株式会社 |
暖簾 | 前田源商店・有限会社田辺織物・有限会社渡藤織物工場・山崎織物株式会社 |
ふすま | 日本海襖協同組合 |
畳 | 中村製畳株式会社 |
消火設備工事 | アセテック |
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