東のくるわの沿革 index

年     表

1975年金沢市教育委員会発行 旧東のくるわ
伝統的建造物群保存地区保存対策事業報告書によるものをまとめた

元和06年(1620) 堀川町に遊女の存在が記録されている
寛永05年(1628) 「金沢町中御定之条々」遊女出合宿に関する禁令
寛永08年(1631)・寛永14年(1637)・寛永16年(1639)  御法度は出合屋を禁じる

何度も禁じるという事は、取り締まりにも関わらず商売繁盛という事を示しているらしい

元禄03年(1690)武士8人が町人と共に (ふっふっふっ。お前も悪よのう〜・・・を地でいっている世界だったんだろうね) 19人の遊女を屋敷・空屋敷へ引入れ出合宿を行っていたことが露顕

武士は五箇山へ流刑
町人は斬首あるいは耳・鼻をそがれて追放
遊女は里子刑に処され奥能登送り  (やはり能登は遠いんだ・・・)

文化08年(1811)町絵図では現在の街並みと違う割になっていた
文政元年(1818)犀川及び浅野川の外に遊里を公許することを稟議
「浅野川茶屋町創立之図」(石川県立図書館蔵) ・・・によると旧諸江屋は「吉文字や いそ」(角側) 「越中や 又吉」(角から二軒目)の二軒からなっている

文政03年(1820)03月25日開設・08月24日開業許可
以前の街並みを再開発し廓の地一町四方は囲いを設け、木戸(冠木門)が建つ

帯刀の者の出入りは廻方役人以外は禁じられていたが、文政11・12年(1828・29)度々諸士の風俗に関する令や、囲内における取締の覚書が出される
天保2年(1831)08月18日 茶屋町廃止 (風紀が乱れるということで茶屋を禁止する)
木戸を取り払う
廃止されたが、町の風俗は改まらず、風俗に関する心得や出合宿、かこい女を禁止する定書が度々出される
弘化03年(1846)茶屋町は愛宕に町名変更される
また、家のつくりまで替えることで『もぐり』の出合宿を営むものをなくそうとする。この改造は廓特有のつくりである階高の高い二階や間数の多い家を普通の家に改めるようにという内容だった

達し書に『嵩高成二階作り』を低く作り直すようにと記されている

茶屋廃止の成果はあがらなかった
慶応03年(1867)再び公認される
再開の申渡が8月晦日で09/09より茶屋営業開始ということは、家屋改造の触はききめがなかった事になる。
これ以降、茶屋町は『東新地』と呼ばれる
この年、『東新地細見のれん鏡』では、大暖簾61軒・中暖簾42軒・小暖簾9軒・芸妓119人・娼婦164人・遠所芸妓45人・雛妓
この時の『東新地絵図』では3階建は見られない
明治5年(1872)10月 人身売買を禁止
11/23正午より抱女を解放し本籍地へもどした
明治06年 貸座敷が公認される
東新地の貸座敷・料理の看板はこの時以降
貸座敷として営業することになったので『芸娼妓、貸座敷営業者に対する仮規』により規制される
明治09年07月  『芸娼妓、貸座敷営業者に対する仮規』が『貸座敷仮規則』に代わる
明治12年 『貸座敷規則』となる
明治21年「石川県下商工便覧」
「上等貸座敷 金澤東新地 御料理 諸江屋 櫛田豊」 として現状と殆どかわらない正面の絵が記されている
「貸座敷仮規則」明治23年改正規則
第9条 二階以上、客室十八坪以上あるものは楷子二個以上を設くへし 楷子の巾は三尺以上たるへし
明治38年頃の写真によると二番丁の通りは桜と柳が交互に中央一列に植わっていた 「写真で見る石川の百年」所収
現在は、何年か前に金沢市が修景として旧諸江屋の前に植えた柳の木が1本だけある。
明治41年「屋上覆葺き規則」
それまでは、石置きの板屋根で勾配は3/10程度。急勾配にして瓦屋根とするものと元の勾配のまま金属屋根としたものの二種類がある。
旧諸江屋は大正末期頃、関東大震災(1923)後、瓦に葺き替え (勾配は4.5/10程度。昔の板を取りその上に登り梁を乗せて束立てしている。旧小屋組の上に新小屋組が載っかっただけ・・・という、危険な状態。茶屋街創立当初(1820)二軒であった名残の戸境壁が残り、建て直しではなく、改造で一軒にしたことがわかる。角側の建物を残し、二間目の建物を壊し、土蔵などを造ったのだろうと思われる。その改造時期は不明である。「越中や」の方を取り壊したことは、土壁や屋根下地の煤け具合が明らかに「吉文字や」側より新しいことでわかる。「吉文字や」側の土壁や屋根下地は全て煤けて真っ黒の状態であるが、壊され接続された方は、汚れも少なく小屋組の部材断面も大きい。

角側の「吉文字や」の方は当初の階段位置→茶屋スタイルの階段位置(急勾配280/190(蹴上/踏面)・一軒にしたときに設けたと思われる)→同じ位置で緩勾配220/227(蹴上/踏面)に改造し、現在に至る)・・・と、階段の変遷が見て取れる。

二階の西角側(正面から見て左手側)は現在壁になっているが、以前は正面と同じ雨戸が廻っていたことが、天井や縁に残された、手摺の後から見て取れる。西側の戸袋もその枚数を入れることができる奥行きになっている。「東新地絵図」によると廓の入口の木戸越し正面に旧諸江屋の西側立面が見え、雨戸を開け放した様子が見て取れる。

お茶屋としての平面・・・という観点で見ると旧諸江屋は志摩にかなり劣る。志摩はお茶屋の形式を美しく伝えている平面計画を持ち、細工なども巧みなものを感じる。金沢の「ひがし」を訪れる方は是非見学されることをお薦めする。400円です。

現在、建築基準法上の主要用途は「待合」または「料理店」に該当する

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