シムクガマ        back
 
シムクガマへ向かう
シムクガマへの細い道
シムクガマ

 『ハブが出るかもしれません、気をつけて』といって、山本さんはスタスタ行ってしまう。その後を不安げな一行は必死についていくのだった。
 ゾウの檻の裏側(下)に1000人もの命を救うことになったシムクガマがある。同じ波平地区の住民が、2つのガマのどちらに避難したかによって生死を分けることになってしまった。 全長3キロに及ぶこの鍾乳洞でどのような話し合いがあったのだろうか。

ここがシムクガマの入り口だ!
シムクガマの入口
シムクガマの入口

 びくびくしながら草むらの中を歩くこと5分。ようやくシムクガマの入り口にたどり着く。うっそうとしげる茂みの中にぽっかりとその入り口が見えた。
 沖縄にはこのような天然の洞窟がたくさんあり、天然の要塞の役目をしていたらしい。

シムクガマの入り口
シムクガマの入口

シムクガマの内部シムクガマの内部

 鍾乳洞の中は暗く静かで、しめっている感じがした。
 このガマには、たまたまハワイ移民帰りの二人の男性がおり、この人たちがいたことでチビチリガマと全く正反対の結果をもたらすことになった。英語が話せたため、ガマが米軍に包囲されたとき、彼らがガマを出ていき米軍司令官に「中には民間人しかいない」と交渉、また住民に対しても米軍は捕虜に対してひどいことはしないと説得した結果であった。そのガマでどのような交渉があったかは知ることはできないが、米軍上陸一日目に1000人全員が生還したという事実だけは残っている。
 集団のリーダーの違い、人員構成の違い、ガマの違いなどいろいろ考えられるが、生と死、どちらの思いが多数を占めたかというその違が大きかったのだろうなぁ。

 ここで、もう一度チビチリガマのことを・・・。
このガマには3月23日の沖縄戦開始以来、波平地区の住民が避難していた。4月1日、米軍上陸開始。従軍していたカメラマンはこの日を『ピクニック』と称しているほど、あっさりと上陸を果たした。兵力不足だった日本軍は持久戦に持ち込むために読谷や宜野湾などの飛行場を放棄して山中に潜んだ。そのため、住民は米軍の兵士(戦力)のまっただ中に置き去りにされたという状況になったのだ。
 避難していた141名の中には、サイパンでの集団自決や、台湾などで捕虜に対して日本軍が行った、残虐な行為を目撃していた人がいたらしい。『捕虜になったら、辱めを受ける、それは生きているよりもつらいことだ・・・』そう判断した人もいたのかもしれない。 4月2日、米軍の投降勧告を無視して、武装した男たちが突撃、死亡の中の2人はこの時の被害者である。
 このような状況で、ガマの中はパニックに陥ったのだろうなあ。集団自決(実際は半数以上が自決ではないといわれている)が米軍上陸の3日目から始まったのである。その状況は想像を絶するものであっただろう。
山本先生の話では、この時の話は戦後長く封印されていたという。今でも、本当のことを語る人はいない。ただガマの中に散乱する自決を結構したときの刃物、衣類、眼鏡、くしなどが何かを語りかけているだけだという。
現在、入り口付近しかチビチリガマは入ることができない。