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平和教育 沖縄現地学習会 第1日(98.8.26) 『基地の島・沖縄』『戦争の島・沖縄(前編)』を、ガイドの沖縄県教組山本先生の案内でまわる。 よろしければ感想を! |
| 8:00 |
小松は曇り空。定刻(8:35)より8分ほど遅れてJTA沖縄行きの飛行機は旅立った。機内ではオリオンビールを注文(400円)、そのあと出された軽食が遅い朝食となった。9時半頃には窓から屋久島が見えたよ。 |
| 10:50 那覇空港到着 |
空港に近づくにつれ、飛行機は噂通り低空飛行に入った。米軍の制限空域と言うことらしい。おかげで、美しい珊瑚礁の海を間近で見ることはできたのだったが。 沖縄は台風4号が接近しているらしく、むっと暑い空気には包まれたが、空は出るときと同じ曇りだった。 |
| 12:30 昼食 ニューヨーク レストラン |
米軍基地の横を通らずに那覇空港を出ることはできない。左右を米軍と自衛隊に挟まれているのだから。
キャンプキンザ→普天間基地→キャンプフォスターと次から次へと米軍基地が続く。情報・武器庫・飛行場・演習場・・・。ここは日本なのか? 沖縄には現在、3万人の兵力が配置されている。この米軍基地、、アメリカが出しているお金は武器と給料ぐらい。後はすべて日本の税金でまかなわれている。住むところ、土地、服、燃料・・・。1年に使われる金額は6000億円にものぼる。
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| 13:30 嘉手納基地 |
『安保の見える丘』から嘉手納基地を望む。周囲17kmの土地(2000f・甲子園球場の800倍!)に、F15イーグルをはじめ戦闘機や偵察機などが配備される西太平洋最大の米空軍基地である。F15は1機約200億円。目の前にはそれが8機並んでいた。1回の飛行に200万円燃料代がかかるそうで、見ている間にその8機が飛び立っていったから・・・。うーん。 (写真をクリックして詳細解説へ) |
| 14:00 座喜味城跡
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沖縄戦で米軍が上陸した場所や、楚辺通信所(ゾウの檻)などが見渡せる高台に建つ城跡。
ここで地上戦のあらましや、これからの行程について聞く。この海を1500もの船が埋め尽くしたわけだね。サトウキビ畑を見渡すことができた。
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| 14:30 読谷村役場 |
戦後100%がアメリカの土地になったが、現在は半分くらいを取り返した。
それはすべて住民の地道な活動によるものであり、日本政府は返還に関して全く手をさしのべてはいない。この読谷村は革新の村長がいろいろやっている。基地の中に役場や野球場が建っており、滑走路が道路となっていた。役場は新築中。 一時借用(といっても50年とかの単位だけど)で、既成事実をつくっちゃえっていう感じ。したたかである。 鳥居のある通信基地(グリーンベレーが配置されているという話)を見ながらバスはチビチリガマへ。 |
| 15:00 チビチリガマ
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こんなところに・・・。そういう感じだった。いよいよ観光コースでは無いというこの旅の雰囲気が高まってきたぞ。 サトウキビ畑をぬうように走る道路の下に、チビチリガマはあった。 入口には『ここはお墓です』という遺族の方の看板。85名がここで命を落とした。ほとんどが老人と子どもである。 集団自決という美化された言葉で語られているが、幼い子どもたちが『自決』をすることは考えられない。ここでどんなことが起こったのか。 シムクガマとの対比で考えたい。 |
| 15:20 楚辺通信所
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通称『ゾウの檻』、軍用地問題で有名になった場所だ。フェンスの外にもう一巻きフェンスが張られている。
衛星によって、現在ではこんな大規模な通信設備など必要ないと思われるのだが。
地下に通信の線がいっぱい通っていてデリケート。人間が歩くときにも一歩一歩慎重に歩かなければならないという(!?)。
人間一人と芝刈り用のトレーラー、どちらが重いかという話が面白かった。
(写真をクリックして詳細解説へ) |
| 15:40 シムクガマ |
そんな慎重に歩かなければならないはずの通信所の真下に、シムクガマがある。
「今度は重装備が必要だからね」山本先生の話にちょっぴりわくわくしてしまった。(すみません)
チビチリと違って、ここでは1000人の避難民が全員救出されている。
ハワイ帰りの2人のリーダーの説得によるものだった。
(詳しくは左の写真をクリック) |
| 17:00 嘉数高台
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1日目最後の見学地は嘉数高台。日本軍が壊滅状態になったといわれる場所だった。4月1日に、ほとんど無抵抗の状態で上陸した米軍は(同行のカメラマンは『ピクニック』と書いている)
この場所で本格的な抵抗を受ける。トーチカ(砲台)も残骸として残っている。16日間一進一退の戦いが続き、双方に大量の死傷者が出ている。恐怖のために精神異常をきたした米軍も多かった。
祖国日本のために戦った沖縄。しかし日本は『本土決戦』のための捨て石、時間稼ぎとしてしか沖縄を見ていなかった。その意識が沖縄に残るあらゆる碑文から見て取れるという。
(ここにある京都の碑文だけが、沖縄を同列に扱っているのだった。) ここを最後に『逃げる日本軍・追う米軍』の構図となり、さらに激しく悲惨なものとなっていったのだった。 |