嘉数高台(高地)     back

嘉数高台戦跡概要

嘉数高台公園

  沖縄に着いてからずっと、食事の時以外休むことなく移動し続け、この嘉数高台公園に着いたときは全員ぐったりとなっていた。(しかし、このたびは初めからそういうハードな日程であることは知っていたため誰一人弱音を吐かなかったのがすごい。)

  細い山道を登り、バスを降りてさらに歩いて登る。とそこには大きな地球をかたどった見晴台があった。その見晴台に登る前に、この嘉数高台について山本さんから説明を受けた。まずはそこに立てかけられた概略を読もう。

嘉数高台戦跡概要

 嘉数高地は、第2次世界大戦中に作戦名称第70高地と命名され、藤岡中将の率いる第62師団独立混成旅団、第13大隊原大佐の陣頭指揮で、約千人の将兵と約千人の防衛隊で編成された精鋭部と、作戦上自然の要塞の上に堅固な陣地構築がなされたため16日間も一進一退の死闘が展開されたが、ついに日本軍は矢尽き刃折れ後退したが、しかし米軍にとっては『死の罠』「いまわしい丘」だと恐れられた程に両軍ともに多くの尊い人命を失った激戦地である。
 この嘉数高地70高地は、旧日露戦争の203高地の値する第2次世界大戦の歴史の上に永代に残る戦跡である。(宜野湾市)


トーチカ跡
トーチカ案内図トンネル入り口 1945年4月1日、読谷村・北谷海岸より上陸した米軍は、全くの無抵抗の様子を「ピクニック」と称した。しかし、4月8日、この嘉数高地で初めて日本軍の激しい抵抗にあう。戦闘は凄惨を極め、日本軍はタコ壷で待ち伏せ、兵士が爆雷を抱えて戦車に体当たりするという肉弾戦法を繰り広げ、米軍戦車30台のうち22台を撃破した。16日間に及ぶ戦闘で日本軍は最大の死者を出す。この闘いでは、米軍兵士にも多くの死者がでて、精神的におかしくなるものあったのことである。詳しく読む

トーチカ
 日本軍のコンクリートのトーチカやそこから続く洞窟、トンネルなどが残る。

青丘(せいきゅう)之塔京都の塔青丘(せいきゅう)之塔
 
韓国出身者386人を祀った、青丘之塔は、これもまた道を外れた林の中にあった。いろんな問題を含んでいて、「この塔に関することは、詳しくは説明しませんが・・・」と山本さん。日本全国に、いったいいくつの知られざる石碑があるのだろう。

京都の塔
 沖縄に建つ多くの石碑は『英霊』の御霊を祀る、軍を賛美するものが多い。その中にあり、この京都の塔だけは「・・・沖縄と京都を結ぶ文化と友好の絆がますますたかめられるよう・・・」と、『平和』の文字を刻まず、平和へ向かう人々の気持ちを力強く宣言している。是非、他の碑文と読み比べて見てほしい(山本さんの話)

普天間飛行場 嘉数高台から普天間飛行場を望む

 沖縄の激戦地、嘉数はまた、あたりを見渡す絶好の場所となっている。視線の先には普天間飛行場。一等地を基地に奪われ、住民は常に墜落の恐怖の中で、基地を取り巻くように生活をしている。移転ではなく、退去を・・・。

 米軍の死者は12000名ほど。そのほとんどがこの戦いでの犠牲者。それ以外は、一方的に日本の被害(主に住民)が増えていく。

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